空が鮮やかな色をした水色で覆われた5月のこと―。 はばたき学園高等部の校舎内に昼休みのチャイムが鳴り渡った途端、慌しく教室から出た生徒達が食堂へ一斉に向かう。 12時を過ぎてから程なくして、1階のクラスで数学の授業があった氷室零一も昼食を取る為3階の職員室に戻ってきた。 幾人かの生徒が教師に呼ばれたり、教師同士の会話でざわついた中、零一は明らかに手作りであろう布に包まれた弁当箱を鞄から取り出し、二段に重ねられたランチボックスの蓋をそれぞれ開けた時、彼の目は大きく見開いたまま絶句した。 『・・・・・・・これは、・・・一体なんだ!?』 すぐさま蓋を閉じた。ただしご飯が詰められた二段目だけである。 慌てて周囲を見回すが、昼休み休憩ということもあり誰も零一の態度を気にかける者はいなかった。 彼は安堵の息を吐いてから、もう一度蓋の端だけ開けて隙間から中を窺(うかが)った。 何度見ても”それ”は間違いではなかった。 銀縁のグラスの奥から覗く涼しげな瞳は、狼狽えているせいで目が泳いでいた。 気のせいだと思いたかったが、これは現実だった。 眉間に深い皺を刻んだ零一は唸り声を上げると、首をうな垂れ組んだ両手を額にあてた。 文字通り頭を抱える格好だった。 31年間生きてきて、初めて遭遇した出来事だった。 「KISS-氷室ver.-」 事の起こりは、わずか二ヶ月前に遡る。 3月1日の今年度の卒業式の時に、氷室零一に初めて恋人と呼べる存在が出来た。 彼女は、3年間零一の担当クラスの生徒であり、氷室学級のエースと呼ばれた自分の教え子である。 恋人の存在は彼の全てを急速に変化させていった。 特に彼女が一流大学に入ってからは、零一の食生活が大きく様変わりした。 食事はエネルギー摂取の為と言って憚(はばか)らなかった零一の3食同じという味気ない食事が、昼が毎食栄養のバランスを考えたお弁当に変わった。しかも週末に恋人とデートした時には、外食か彼女が手料理を振る舞うかどちらかで、おかげで元の食事を摂るのは慌しい朝食ぐらいだ。 恋人は、零一の幼馴染である益田に『あいつの食生活が大いに改善されて良かった』と感謝されるほどだった。 少し口元を緩めた零一がいつものように蓋を開けると、真っ白なご飯の真ん中にピンクのでんぶで作られた大きなハートマークとわざわざ刳(く)り貫(ぬ)いた人参のグラッセで作られた『LOVE』という文字が踊っているのが目に飛び込んできた。 「・・・・・・!!??」 零一は反射的に蓋を閉めた。 『一体何を考えているんだ!?あの子は!!』 わけがわからないまま、彼はもう一度蓋を持ち上げてそっと中を窺った。 夢ではなく、白いご飯の上にピンクのハートマークと『LOVE』のオレンジ色の文字が大きく存在感を示している。 一段目はおかずで、唐揚げにレタスとポテトサラダとプチトマトを添え、絹さやのごまあえと白ワインビネガーに漬けていたセロリときゅうりも入り、恋人の自分へ身体の労(いた)わりが感じられる内容だった。彩りも栄養価も弁当のレシピ本さながらの出来だった。 問題はご飯なのだ。隠して食べられるような小さな存在感ではなかった。 「これを俺に職員室で食べろというのか・・・?」 零一は苦悶の表情を浮かべた。 一ヶ月零一の弁当を作り続けている恋人が、いきなりこのような行動に出る理由がわからなかった。 しばらく考えてから、思い出した。 零一の予想を上回る行動を彼女はたびたびすることがあった。そしていつも振り回されていることにも。 諦めに近い大きなため息を一つ吐いてから、彼はご飯が入った弁当箱の蓋を開けた。 「仕方ない・・・。ご飯を先に混ぜて崩してしまえばわからなくなるだろう・・・。」 怒っているだけでは昼休みが終わってしまうと思った零一は辺りを見回し、誰もいないことを確認すると、>ハートマークを混ぜご飯にしてわからなくしようと考えでんぶに箸をつけようとした。 その時だった。 一人の女子生徒の甲高い声が職員室全体に広がった。 「氷室先生のお弁当、ピンクのハートマーク入ってるぅ〜!!カッワイイ〜!!」 振り向くと、見覚えのある2年生の女生徒が自分の弁当を覗き込んでいた。 「い、いつの間に・・・?」 よく見ると教師にプリントを配るのを頼まれたのか、手に紙束を抱えている。 この子のクラスの担任教諭の机は窓際の一番奥なのでそのまま後ろの扉から職員室を出るだろうと思い込んでいた零一は、まさか女子生徒がわざわざ自分が座っている真ん中の通路を通って前の扉から出るとは思わなかった。 見られたと思った途端、恥ずかしさのあまり頬が急速に熱くなった。 その声が呼び水となってわらわらと零一の傍に集まり、あっという間に人垣が出来た。 職員室にいた物見高い生徒だけでなく、教師までもが零一の傍に寄ってきた。 ホントだーー!しっかも”LOVE”って文字まで!彼女の手作りですか?かわいいですね。」 「・・・・えっ!?」 自分の受け持つクラスの女生徒までも、楽しそうに弁当を覗いていた。 彼女はチアリーディング部に入部し、顧問に呼ばれて来たところだった。 「氷室先生も隅に置けませんねえ・・。」 楽しそうに呟くベテランの男性教師の声にドッと背中から汗が噴き出す。 「あ、あの、これは・・・彼女が私の食生活を心配しただけで・・・。」 しどろもどりになりながら、自分の口からは言い訳しか出てこなかった。 「ああ・・・。確かにあのお昼ご飯は心配になりますよね。」 長年勤めている教師全員が納得して相槌を打った。 どうやら恋人だけでなく、あの食生活はひどいと零一の同僚も密かに思っていたらしい。 「いや〜春から氷室先生を心配してくれる方が現われてホッとしましたよ。」 「本当に。あの食事はひどかったかですからねえ・・・。良かった、良かった。」 「私は適切なエネルギー摂取だと思っていましたが・・・・。」 小さな声での反論は集団の声に簡単に掻き消された。 ひとしきり騒いだ集団が離れると零一は疲れ果て食べる気力を失いそうになったが、恋人が作った食事を残すわけにもいかず行儀が悪いと知りながら、急いでご飯をかき込んだのだった。 吹奏楽部の指導に熱心な零一が、クラブ顧問の身でありながらパートリーダー達に指示を与えて放課後すぐに帰ってしまったので、部員達は学園七不思議さながら、アンドロイド初号機の彼の頭のネジが一本取れたという結論に達した。 そんな扱いをされているとは露知らず、零一は自宅のマンションの玄関の扉を開けるなり恋人の靴を見つけると、真っ直ぐ応接間へと向かった。一流大学からの帰り道に零一の部屋に毎日寄る彼女がソファに座って寛いでいた。晩御飯の料理の最中らしく、美味しそうなビーフシチューの匂いがキッチンから続きの応接間まで広がっていた。 「お帰りなさい、零一さん。今シチューを煮込んで・・・。」 立ち上がり、いつもと変わらず笑顔で出迎えた恋人に、帰ってきた零一は鞄を足元に置くと腕を組んで仁王立ちになっていた。 「君は一体何を考えているんだ!?」 どんな時でも冷静な性格の彼が開口一番声を荒げた。 「いきなりどうしたんですか、零一さん?」 流石に3年間零一のクラスにいただけのことはあった。厳しい叱責に恋人は少しも動じなかった。 怒られる理由がまだわかっていないのか、首を傾(かし)げる彼女の態度に、零一はますます苛立ちを募らせる。 「今日の昼の弁当のことだ!」 まるで生徒指導の教師が問題を起こした生徒に詰問する言い方そっくりだった。 しかし彼女は眉根を釣り上げた零一の態度に怯えることもなく、反対に心配そうに訊いてきた。 「・・・もしかして・・・今日のお弁当美味しくなかったんですか?」 毎日空のお弁当を、彼は美味かった、ありがとうと恋人にお礼を言いながら渡している。 帰ってきていきなり零一に怒鳴られたことはなかった。 慌てて、零一はお礼を言う。 「勿論、美味かった。味も五味に分かれていて、彩(いろどり)も栄養価も申し分ない。」 「良かった〜。今日は唐揚げの隠し味に塩麹を入れてみたんです。」 「いいや!良くないっ!」 話の腰を折られた零一は話題を元に戻した。 「あのピンク色のハートマークはどういうつもりだ?しかもご丁寧にLOVEという文字まで!! おかげで俺に手作りの弁当を作る恋人がいるとすぐに学内中に広まってしまっただろう!」 恋人は膨れっ面になり、零一を責めるように上目遣いで呟いた。 「・・・零一さんは職場で恋人がいるって知られるの嫌なんですか?」 目が合って恋人の色素の薄い瞳が悲しみに揺らいだのことに零一は気付いた。 すぐさま冷静な思考を取り戻し、彼はソファに恋人を座らせ隣に腰掛けた。 「違う。そういう意味で言ったわけではない。 ・・・・すまない。・・・俺の言葉が足りなかった。」 瞳と同じ色の髪を梳(す)くように恋人の頭を彼はゆっくりと撫でる。 彼女の髪の毛は艶やかなシルクのような手触りだった。 「生徒達にとって親しみを感じられる教師は、俺が目指すべき教師像とかけ離れている。 常々俺は教師と生徒との間に一定の緊張感があって然るべきだと思っているからだ・・・。」 頭に乗せていた手を恋人の背中に回し、零一はゆっくりと彼女を抱き締めた。 愛おしい体温はいつも自分を落ち付かせる。 零一は帰宅した時の行動を省(かえり)みて、自分の浅慮と狭量(きょうりょう)を恥じた。 「だが、今のは完全に俺が悪い。 君は毎日俺の為に食事を作ってくれているのに、その苦労も考えないで怒鳴ってしまって本当にすまなかった。職場の同僚や生徒達から囃(はや)し立てられて、恥ずかしさのあまり大人気なく君を責めてしまった。・・単なる八つ当たりだな・・・。」 零一の節くれだった手で頭を優しく撫でると、彼女は甘えるように胸に頬を摺り寄せてきた。 男性の、零一の匂いがするYシャツに彼女はしがみつく。 甘ったるい雰囲気は気の利いた言葉が出ない零一にとって苦手だったが、いざ恋人が出来てみるとこんな時間も悪くないと思い始めた自分がいた。ふっと口元が緩んで笑みが零れた。 「・・・・零一さん?本当に全校生徒に知られちゃったんですか?」 顔を上げた恋人が零一を見つめて尋ねた。二人の距離はキスできそうな程近い。 慌てて目線を逸らした零一は赤くなったのを見られたくなくて、彼女の肩に顎を乗せた。 「ああ・・・。理事長までわざわざ放課後職員室にやって来た。全く忙しいのに、あの人も・・・」 呆れたように恋人の肩の上でため息を大袈裟に吐く。 「じゃあ・・・」 「ん?どうした?」 「もうこれで思春期にありがちな錯覚を起こした女子生徒さんは零一さんに近寄ってきませんよね?」 「はあ?」 口を大きく開けた零一は恋人が何を言っているのかわからなかった。 「恋人がいる先生にラブレター出す人はいませんから。」 「・・・・・・・・・・・あ。」 笑顔の彼女にこう言われて、零一はようやく気付いた。 4月に受け持ったクラスの女子生徒からのラブレターがいつの間にか零一の鞄に忍ばせてあった。 二人でソファに置くクッションを買いに行った時に、零一がこっそり買って鞄に隠しておいた揃えのスリッパを取り出した恋人が発見したのだ。恋する女同士、彼女はラブレターだと敏感に反応した。 しかし恋愛に疎い零一は「単なるいたずら」と一笑に付してしまった。 軽い言い合いになったのは当然の結果だった。 終いには「恋愛は思春期にありがちな錯覚」とまで口を滑らしてしまった。 二人が付き合う前ならまだ良かったが、恋人同士になった後に言ってしまったのは失敗だった。 彼女が不満気な顔から、泣き出しそうにあからさまに顔を歪めたからだ。 門限に邪魔されて二人は夜に電話で話すことになったが、結局零一は女子生徒からのラブレターは悪戯だと言って取り合わなかった。以降二人の間に話題に上らなかったので、零一は恋人は納得してくれたと勘違いしていた。 『その情熱をもう少し有意義な方へ使おうとは思わないのか・・・。』 零一はどっと疲れが出たような顔になる。 『・・・まさかまだあの手紙を気にしていたとはな・・・。』 零一は彼女の行動力に半ば呆れていたが、ハートマークを入れた理由が解った途端、今までの怒りがふっと腹の底から消えた。 『この弁当は俺の言葉が原因だったのか・・・。』 入れ替るように浮かんだ感情は、彼女へ恋慕だった。 ラブレターを出した女子生徒に恋人が嫉妬したと、彼はやっと気付いたからだ。 零一を奪われたくなくて、それでも零一に迷惑がかかるあからさまな行為は出来なくて、考えた結果最小の行動で最大の成果を上げるハートマークが入った手作り弁当ということになった。 彼は恋人の頭の良さに感心すると共に、彼女の想いの深さを改めて知った。 「・・・・・俺を見損なっては困る。」 「零一さん?」 「コホン!君が気にしているようだから、きちんと伝えておく。 俺は教会で告白した時から、生涯を君と共にいたいと考えている。」 恋人が驚いて顔を上げた。色素の薄い瞳を見開いたまま。 零一の言葉の意味が解った途端、急速に彼女の頬が真っ赤に染まり耳まで熱が伝わった。 「えっ・・・それってもしかして・・・私期待しても構わないんでしょうか?」 言葉が零れるのと同時に、恋人の眦から一粒涙が零れた。 「コホン!そういうことだ・・・。わかったな?」 恋人は一度大きく頷いた。拍子にまた一粒涙が零れる。 長い節くれだった零一の指が温かい涙を優しく絡め取って、口元へ運ぶ。少し塩辛い筈の涙が彼女のものはやたら甘く感じた。 零一は恋人を抱き寄せると、花の蜜に吸い寄せられるように微笑む顔に自分の唇を近づけた。 「だから・・・もう泣くな・・・。」 眦から零れる温かい涙を自分の唇ですくった。 そして眦から瞼、額、頬と、零一は自分の刻印を押すように、唇を押し当てていく。 「いいか?君が俺から離れたくても、俺は君を絶対に手離すことはない。 覚悟はいいな?・・・・返事は?」 恋人は口元を綻ばし、花のような笑みを浮かべて答えた。 「はい!」 「よし、いい子だ・・・。」 教会での愛の誓いのように、二人は唇を近寄せ静かにキスを交わした。 |
<2013/9/29> やはり氷室先生はヘタレなDT仕様なのは我がサイトの特徴でございます!www 一人だけキスにがっつかない、もとい、がっつけない残念な男でございます! 最後ちょっと花持たしたけどねwww ラブレターを悪戯と言い切るあほな先生にちょいと罰を与えてあげましょう(めっさ悪魔の笑みで)と思い書きました。 |