外気温は25度を越えた8月1日の朝。 滴り落ちる汗を拭うこともせず若王子貴文は校舎の階段を一段一段昇っていった。 自分の足音しかしない静かな校内だが、校舎の周囲に植えられている木々からは蝉の鳴き声が五月蝿いほど聞こえた。 「はあ・・・。やっと着いた・・・。」 校舎の最上階にある視聴覚室への階段を上がりきった踊り場で、若王子はすでに息が上がっていた。 日頃の運動不足がたたりだるくなった太腿を気にしながら、乱れた呼吸を整えようと大きく息を吸ってから額から頬に滑り落ちた汗を白衣の袖口で拭った。 階段を使って昇るだけで、真夏では背中がぐっしょり濡れていた。 眉を小さくしかめながら、彼は視聴覚室の扉の鍵を開けた。 「うわっ・・・。」 扉を開いた途端、殆ど使用されていない室内の淀んだ空気が若王子に纏わりついた。 一年中カーテンで閉め切っているのに、真夏のせいか湿気と熱気しか無い。 若王子は直ぐ換気しようと窓へ近寄り、自分の腰から天井まであるカーテンを開けた。 眩しい朝の光が真っ直ぐに若王子の瞳に突き刺さる。 目を眇めて空を仰ぐと、真っ青の空が見えた。 「ああ・・・、今日も暑くなるな・・・。」 「夏の朝」 8月に入ってから2週間、3年生の受験対策と補習を兼ねて、羽ヶ崎学園では毎年夏季特別講習が行われる。 自由参加だが、上位の成績者のみならず、進学予定の生徒達で一杯になるので一番大きな教室である視聴覚室で実施されるのだ。 もちろん、受験用の試験問題に特化した塾の夏期講習へ行く生徒が半数以上なのだが、一流大学から教鞭を取って欲しいと秘かに「はばたき学園」の理事長を介して依頼が来ている若王子の伝手もあって、今年は過去の受験用の試験から傾向と対策の講習になるという噂のおかげか、今年は珍しく上位成績者の生徒達が多数出席していた。 若王子が顧問を務める陸上部の女の子も、成績上位者の一人だ。 塾も一年の時から通っているが、今年塾の講習へ行かず、学校で行われる夏期講習へ参加する。 すでに何度も秘かにデートを重ねている彼女への恋慕が増すばかりで、若王子はクラブ合宿以外で夏休み毎日会える嬉しさに、女生徒の顔を思い浮かべながら自然と柔らかく微笑んでいるのであった。 『生徒達が登校してくるまで後一時間以上はあるから・・・。』 全部の窓を開放してから、若王子は黒板の前にある担当教諭が座る椅子に深く腰掛け、背中を預けるように背もたれにもたれかかった。 しばらく止んでいた蝉が一斉に鳴き始めて、若王子はそれを遮るかのように深く目を閉じた。 汗がまだ止まらない額に湿気を含んだ風が当たり、彼にほんの少しの涼しさを感じさせた。 目を瞑っていると、遠くから足音が聞こえてきた。 『もう登校してきた生徒がいるのか・・・。こんなに早く、物好きだな・・・。』 暑さで夢か現かわからないまま、ぼんやりとした頭で若王子は思った。 その足音はリノリウムの廊下の床と内履きの靴が擦れて時折キュッキュッと音がする。 男子生徒特有の大きなな音ではなく、軽やかでスキップのようなリズムを刻んで、視聴覚室へと近づいていった。 そっと忍び寄る影に気付いても、若王子は目を瞑ったまま寝たふりをした。 何故ならその足音は、彼が羽ヶ崎学園の全校生徒の中で一番良く聞いているからである。 両脚の筋肉の使い方を陸上部で教えられたおかげで、足の運び方に変なクセがない。 負荷が両足に均等に乗っている、実に素直な足音だった。 『ああ、あの子が来たんだ・・・。』 察した若王子は内心嬉しさに胸躍らせ、心音が早くなった。 しかし彼女が扉の前に現われても、目は閉じたままだった。 「若王子先生・・・?」 彼女からの呼びかけに若王子はわざと反応しなかった。 それは無防備に自分が寝ていたら、愛する女性はどういう行動に出るのだろうかという彼の単なる好奇心であった。 まさか寝たフリしているとは思わず、女生徒はほんのちょっとの悪戯心が芽生えて、彼の髪を撫でてみたくなった。 猫っ毛みたいな軽くウェーブがかった髪は、背が高いせいで若王子が座らない限り手が届かない。 元々教師と生徒の関係なので触るなんて失礼な発想はなかったが、デートを繰り返す関係になった今なら許されるのではないかと、 一度も触ったことがない若王子の無防備なうたた寝姿を見て思ったのだ。 静かに、若王子の頭に日に焼けた右手を伸ばした。 「!!!???」 届くと思った瞬間、彼女は白く大きな手に右手首を掴まれ、驚いて声を上げる隙(ひま)もなく手首ごと強く引っ張られた。 ドンと固いものに当たった衝撃で、女の子は思わず瞼を閉じた。 頭の上から、少し大袈裟に言う若王子の声が聞こえた。 「ややっ、先生、とても可愛い蝶々を捕まえてしまいました。」 「えっ!?」 それはどういう意味かと、顔を上げようとして、彼女は動けないことを知った。 目を開くと、見慣れた水色のシャツが見えて若王子の体温を布越しに感じる。 『えええええーーーーー!?』 彼女は初めて若王子の胸に抱かれていることに気付いた。 顔を上げようともがいても頭と背中をがっちり掴まれて、若王子の固い胸に押さえつけられている。 日頃運動音痴だと言う割に力強い。 彼女はいつも柔らかく笑う教師を、やはり男の人だと痛感した。 「くっるしい・・・。 もうっ!先生!何してるんですか!?」 くぐもった声が自分の胸から聞こえて、若王子はますます嬉しそうに弾んだ声で応えた。 「先生、小さい頃からアメリカで暮らしていたんで、昆虫採集という日本の子供達が夏休みにする遊びをしたことがないんです。 なので、今日は日本の習慣に習って、先生も”掴まえたいもの”を掴まえてみました。」 「私昆虫じゃないですよ〜。」 「君が昆虫って言ってないですよ?ただ、僕が掴まえたかったんです。」 彼の腕の中で抜け出ようともがく様が、蝶々というより愛らしい猫みたいで可愛らしいと思った若王子は、彼女を捕らえている両腕の力を緩めた。 途端に「ぷはーっ」と大きく息を吸う彼女の顔が眼前に飛び出してきた。 「もう!若王子先生てばっ!!」 少し目を吊り上げながらも、本気で怒っていない彼女を見て、若王子はふふふと笑んだ。 「先生なのに、悪ふざけが過ぎましたね。・・・ごめんね? でも、君がいけないですよ?君があまりにも可愛らしいことをするから・・・。」 「・・・・ごめんなさい。先生の柔らかそうな髪の毛を、・・・な・・・撫でてみたいって思って・・・・。」 「・・・・・・・・・・・・・。」 素直に謝るどころか、あまりにも可愛らしいことを言う彼女に、ますます恋慕を募らせ背中に回した両腕につい力が入る。 「せ、先生・・・?」 しかし彼からの返事はない。 ただ愛おしそうに、抱き締めたまま黙っていた。 若王子の腕の中で大人しく抱かれたままになっている女の子は、彼の態度を訝(いぶか)しんでもう一度名前を呼んだ。 先生ではなく、『貴文さん』と。 『困ったな・・・。僕はこの子との3年間の思い出だけで十分幸せだと思っていたのに・・・。 君を手放したくないって願うなんて・・・。』 後7ヶ月で彼女はこの学校を巣立っていく。 その時自分は、他の生徒同様に前途を祝福して黙って見送ることができるのだろうか。 「もう・・・・・」 言いかけた言葉に、一度口を噤んで。 「・・・もう、少し・・・・・・。」 彼女にそう囁きながらも、若王子はこのまま時が止まってしまえばいいのに、と切に願っていた。 「このままでもう少し一緒にいてくれませんか?」 逡巡した気配が感じられたが、ややあって彼女は恥ずかしそうに顔を真っ赤にして頷いた。 「・・・はい。」 |