「33歳の保健体育 LAST STEP 前編」


「どうした?早く入りなさい。」
「は、はいっ。」
彼女は夫となった零一の言葉に促されて、部屋の中に足を踏み入れた。
「・・・・・・・・・・。」
海外のホテルが初めてでだったが、大きな驚きや感動はなかった。世界に展開するホテルの部屋は、見知らぬ土地でもどこか日本の内装と似ていて緊張していた彼女はほっと胸を撫で下ろした。
中に入ると二人がゆったりと寝られる大きなダブルベッドが右壁に沿って置かれ、彼女の目を真っ先に引いた。ベッドの隣には壁から突き出たエッチングで模様が刻まれた曇りガラスのパーテーションが部屋を区切り、入り口から見えない場所に白磁色した鏡台が隠れている。天井から床まである大きな窓の傍には旅行会社が新婚旅行の二人の為に頼んでおいたウェルカムフルーツと美しい花が飾られたガラステーブルと二つの布張りのソファが並ぶ応接セットが見えた。
零一はホテルのボーイに二人分の荷物を運んだお礼にとチップを渡し、部屋を出て行った後ドアが閉まるのを確認してから彼女へと振り返る。
「君は疲れていないか?海外は初めてだろう?」
新婚らしく、少し硬い言葉ながらも妻を優しく気遣う想いが含まれている。
「ヨーロッパってすごく時間かかるんですね。でも全部が初めてなので面白くて全然疲れていません。零一さんこそ大丈夫ですか?」
11歳年下の妻に逆に訊き返された氷室零一は「俺は大丈夫だ。」と即答した。
成田空港を朝に出発した直通の飛行機が、フランクフルトに到着したのは約12時間後の午後2時であった。
彼女の脳はすでに夜の10時で寝支度を整えている時間なのに、降りた先は夏の陽光が燦燦と降り注ぐ昼間だったので身体と視覚のバランスがおかしくなりそうに感じた。しかし、眩しいほどの真夏の太陽は、彼女の睡眠欲をすっかり忘れさせた。
ベッドの縁に座った彼女は二人きりになってやっと緊張が解け思い切り伸びをした後、零一に笑顔で尋ねた。
「零一さん、これからどうするんですか?」
妻は零一と付き合ってから、結婚してからもこの呼び名を変えなかった。元々教師と教え子から始まった関係なので、古風に躾けられたわけではなく、今時の20代には珍しく敬語がくせになっているだけなのだ。
零一は学生時代から愛用している腕時計を覗いて妻の問いに答えた。
「夕食まで時間があるからライン河をフェリーで下る予定だ。着替えたら出かけよう。」
「あ、はーい。」
彼は新婚旅行まで几帳面な性格を発揮し、詳細に計画を立てた。もちろんわからないことがあったりすると、頼んでいた旅行会社の担当者の元を訪れて、間違いがないか確認してもらう念の入れようだった。
5年前のはばたき学園での修学旅行の時も、零一は担当クラスの教え子ある妻を連れて京都の街を自由行動で一緒に見て回ったことがある。綿密な計画を立てて行動すると時間のロスはないと、当時と同じ言葉を言っていた彼だが、本音は初めて海外旅行をする妻に様々な場所をみせてあげたいというのが一番の大きな目的だった。世界は広い。そして様々な文化と歴史がある。壮大な物語である歴史のほんの一部でもいいから、彼女に見て触れて欲しかったのである。11歳も若い彼女に、それは人生の先輩からのアドバイスであった。
そんな零一の心を知らず、妻は彼の大きな手を握って生まれたばかりの雛(ひな)のようについていく。
フランクフルトからバスで一時間かかって、ライン河のフェリー乗り場に着いた。チケット売場も乗り場も観光客は見当たらないので、時計を確認するともうすぐ出発の時刻だった。客は全員乗船しているらしく、黒のスーツに身を包んだクルーらしき背の高い女性が乗り場で急ぎ足の二人を笑顔で迎えてくれた。これから約一時間のライン河のクルーズが始まるのである。

彼女の身体での感覚は、すでに深夜一時を回っていた。ところが空港に着いた時はまどろむような眠さを脳が訴えていたが、昼の陽射しと、海外に来た興奮とで身体は辛さを感じることはなかった。
彼女には見るもの全てが新鮮だった。初めての海外、初めて見る景色はとても珍しく、バスからの車窓すら眺めるのも楽しかった。街並みも、空の色も、空気の匂いさえ日本と違っていた。彼女はすっかり眠気を忘れて、観光を楽しんでいた。
ライン河の観光クルーズを終えてホテルに帰ってくる頃には、夕食に丁度いい時間だった。
「ホテルでも構わないが、外に出ても問題ない。君はどちらが好みだ?」
「どちらでもいいです。零一はさんはどうしたいですか?」
「そうだな・・・。俺は・・・。」
考え込む零一の横顔を妻は嬉しそうに見つめ、結婚して蜜月な旅行に来ているのだと実感した。心が温かくなり少しこそばゆくなる幸せな気持ちは、彼女の瞳をキラキラと輝かせるのであった。


二人がホテル内のレストランでの食事を終え部屋に戻ってきた時には夜の8時になろうとしている。
何事もなく1日が無事過ぎたことを安堵し、零一は小さく息を吐くとともに胸元のネクタイを緩めながら、流石に一日中寝ないで起きている妻が限界だろうと察した。
「君も長時間の移動で疲れたろう。今日は風呂に入って先に休んでおきなさい。」
まだ大学卒業し立てという若さのおかげで乗り切ったが、ご飯を食べて部屋に着いた途端疲れを実感して睡眠欲を思い出したらしい。このままベッドに倒れこむと起きられないほど彼女の身体は重くなっていた。
「・・・・はい、わかりました。」
欠伸を何度もしている妻は、ほんの一瞬零一に何か言いたげな顔をしたが頷いてバスルームに消えていった。
「明日は、フランクフルトからローテンブルクへ行き、シュツュットガルトまでか・・・。。」
零一はバス停に向かう間に本屋に立ち寄り、ドライブに備えて詳細なロードマップを買っていた。 地図を広げ、アウトバーンから降りる地名を確認する。
明日から日本人に人気のロマンティッシュ・シュトラーセ(ロマンチック街道)を彼らはレンタカーで南下していく。レンタカーにはカーナビが搭載しているが、自分が道を覚えている安心感が運転にも心にも余裕が出来ると考えた零一は、 現地で売られている詳細なロードマップをドイツに着いたその日に本屋で求めた。初めて海外に来た妻の為に、詳しいルートの確認をしながら彼は頭に地図を覚えこませていった。


二日目の旅はフランクフルトから、ロマンチック街道沿いの「中世の宝石」と呼ばれるローテンブルクへ寄り、クリスマスシーズンには最大のクリスマスマーケットが開催される有名なシュツットガルトへ向かう予定だ。リアリストの零一には珍しい観光場所だと言える。
街道沿いには中世の面影を残す街並みや古城が多く、日本人に大変人気がある。元々感情的や感傷的なものに縁のない零一はロマンチック街道へ行く考えは全くなかった。
クラシックを聴いたりピアノを弾く趣味の零一にとって、ドイツとオーストリアへの新婚旅行はすでに決まっていた。妻もドイツとオーストリアで文句は言わなかった。
ドイツのワイマールは、「作曲の時代」と呼ばれた晩年のフランツ・リストが過ごした場所だったので行きたいと考えていたし、シュツュットガルトではポルシェ博物館とベンツ博物館がある。一度はばたき市の博物館内で展示されている数々のクラシックカーを見たが、素晴らしい名車に感動し機会があれば本場の博物館も見たいと願っていた。オーストリアはフランツ・リストの生家もあり、ウィーンでは毎日どこかのホールで開催されているオーケストラのコンサートにぜひ妻を連れて行きたいと考えていた。時間があればユネスコの世界遺産に登録されている歴史的価値のある教会や建築物を見て回るのもいいかと思っていた。
しかし行き先を自分ばかり決めるのは悪いと思い直し「折角の海外だから君が行きたい場所はあるか?」と彼女に問いかけると、真っ先に妻が指差したのがノイシュバインシュタイン城であった。零一は眉根を小さく寄せあからさまに口をへの字に曲げた。
無論、有名すぎる城の名は彼も知っている。
音楽家ワーグナーのパトロンであったルードヴィヒ2世が建てた未完成の城である。
しかし、彼にはこの古城が素晴らしいものだとは思わなかった。確かに歴史的に価値があるとは思うが、美しいというよりは金の無駄遣いをしすぎた豪奢すぎる城だと、否定的な考えを持っていた。
だが、シンデレラ城のモデルになったと言われている有名なこの城は、日本人に特に女性には大人気の観光地であった。嫌な予感がしたが、案の定ウィーンに滞在する時もオーケストラの演奏を聴きたいとは言わず、シェーンブルン宮殿を見たいと言った。こちらはかの有名なマリー・アントワネットの母マリア・テレジアが大改修を経て完成させたユネスコの世界遺産の豪華な宮殿である。
議論を重ねた結果、自分の趣味の観光地へ行ったりクラシック音楽を楽しみたいと言った零一が折れて、ドイツのロマンチック街道沿いの教会や古城を回るプランに変わった。
「結婚は、お互いの妥協の積み重ね・・・か。よく言ったものだ・・・。」
11年離れた若い妻の願いに、眉間に小さく皺を寄せたまま零一は了承したのであった。この先もこういうことが起こるのかと思うとため息を吐きたくもなるが、ここでめげないのは彼らしかった。零一は愛する妻の為にフランクフルトからウィーンまでの観光地を調べ、彼女の好みそうな観光地や街を選んで行ったのである。
結果、フランクフルトから少し離れたライン河下りから始まりフランクフルトで一泊、翌日レンタカーを借りて、ローテンブルクで観光し、午後から再び車を走らせシュツュットガルト近郊のポルシェ博物館へ行き一泊。翌々日の午前中にベンツ博物館を見学し、ロマンチック街道最終地点フュッセンまで行く。その間にヴィース教会とノイシュバインシュタイン城を巡り一泊し、ミュンヘンで1日過ごした後、ドイツを離れオーストリアのザルツブルクを経て、ウィーンは2泊過ごす予定になっている。(計画表の中にこっそり自分の趣味を組み込んだのは、せめてもの零一の抵抗である。)
「よし、ルートは全て確認した。万全だ。」
カーナビは信用しているが、零一はしっかりと地図を頭に叩き込み、ルートの最終確認を済ませた。
一息つくように前髪をくしゃりと右手で無造作にかき上げてから、腕時計を見下ろす。ドイツに着いてすぐ現地時間に合わせたそれは、9時を指し示していた。明日は6時には起きていなければならない。
バスルームからシャワーの音が漏れ聞こえる。
「今日は早く休め・・・か。」
今日は24時間以上起きていた妻を抱くことは出来ないと思っていた。明日からと、気合いを入れて今夜はゆっくり眠ることを決めた零一はソファに凭れながら背伸びをし、大きく欠伸をしたのだった。


二日目の朝、フランクフルトはよく晴れていた。朝は少し肌寒かったが今日も日中になると25度を簡単に越える暑さだと新聞には書かれてあった。日本と同じく緯度の高いヨーロッパでも異常気象が発生しているらしい。
チェックアウトを済ませ扉を潜(くぐ)ると、ホテルが用意した車をドアマンが玄関先まで回してくれていた。彼ら夫婦はドイツ最後の夜をミュンヘンで同じ系列のホテルに泊まりレンタカーを返すことになっている。笑顔のドアマンが零一の代わりに助手席のドアを開けてくれた。
ドライブ日和と言われるような澄んだ空を背景に、零一はフランクフルト市内からアウトバーンへ入りローテンブルクを目指して車を走らせた。
二日目の予定はここから200km離れた、『中世の宝石』と呼ばれるローテンブルクの市内観光と午後からはシュツュットガルトへ行き、近郊のポルシェ博物館を見学する予定だった。市庁舎や聖ヤコブ教会、そして旧市街をぐるりと取り囲んだ城壁もあるし、何よりその先で素晴らしい歴代の名車がずらりと並ぶ博物館がある。
しかし、彼には今夜の初夜が何より重要だった。
アウトバーンへ入った車は、一気に加速した。日本と違い時速100kmは軽く超える。零一は来(きた)る今日の夜を想像し、ステアリングを握る手にも力が籠もった。

ローテンブルクへは、まだ陽が高くならず冷たく爽やかな空気が流れている時間に着いた。二人を乗せた車はレーダー門を通り観光で有名な旧市街地に入る。零一は日本のコインパーキングと同じ小さな駐車スペースに大きなドイツ車をさっさと入れると妻と市内観光へと繰り出した。先ずは旧市街を取り囲む城壁からだった。
「・・・この旧市街地の全長は3.4kmで、高さ9Mの城壁が囲まれている。」
城壁に作られた急な角度の階段を昇りながら、零一は説明する。ガイドブックもなしにすらすらと言葉が出るのは、日本にいるうちに本を読み終えて覚えてしまっていたからだ。
「へえ〜。日本のお城の城壁とは全然違うんですねえ・・・。城壁の中が廊下みたいになって人が歩けるんだ・・・。」
スニーカーに日よけのシャツを着てショートパンツというラフな格好の彼女が感心しながら後に続く。城壁は壁ではなく、中を刳り貫(ぬ)いて背の高い階段があり二階に人が登れるようになっている。市内から見て外に面している片側はまさしく壁だが、反対側の街側には壁はなく木枠があるだけで見晴らしが良かった。180を超える身長の零一にとって、かなり窮屈そうな屋根に頭が当たらないか妻は心配して顔を上げた時何かに気付いて足を止めた。城壁の細い廊下の壁に様々な名前が刻まれていた。
「あれ、零一さん、これは・・・?名前?USAってアメリカですよね・・・?」
天井の梁(はり)に当たるのを避けながら零一が振り向くと、ああ、と思い出したように頷いた。
「10世紀に作られたこの古い城壁は第二次世界大戦の際に破壊された。その時修復に関わった世界中からの寄付者の名前が刻まれている。」
「それでアメリカもあるんだ・・・。あ!日本の会社もありますよ!」
遠い異国の地で見つけた日本の企業を指差しながら、彼女は嬉しそうに土色のプレートに指を刺した。
駆け足気味に歩いた城壁から下りると、二人は市内に入りマルクト広場へ向かった。
そこからヘレンガッセ通りを通り聖ヤコブ教会と市庁舎を見て回るとローテンブルクの観光は終わり、次は零一が望んだ、車を走らせてシュツュットガルト近郊のポルシェ博物館を見学する予定だ。時間があればベンツ博物館も今日中に回れるかもしれないと考えていた。今日も妻に見せたい観光場所は目白押しだった。ドイツでは午後5時に終業するスーパーや店、公共機関が当たり前にあるので、計画通りに行動しないと限られた時間では全部を見て回れないのだ。
ところが、零一と腕を組んで隣を楽しそうに歩いている妻が急に大きな声を上げた。
「あーーー!!零一さん!あのおっきいくまのぬいぐるみ!きっとテディベアですよ!!可愛いーー!!」
「ま、待ちなさい!!どこへ行く!?」
言うや否や、零一の手を解き妻は大きなくまのぬいぐるみに向かって駆け出した。
どうやら零一が歴史的価値のある建物を彼女に見てほしいと願って、観光客専門の土産店を排除して練られた計画に狂いが生じ始めたようだ。
店の入り口で大きいクマが立って迎えてくれているようなその店は、観光客に人気のシュタイフ社のテディベアが売られている専門店テディランドであった。まさかそれが彼女の目に留まるとは、しかもそこに入ろうとするとは思ってなかった。何故なら今日の計画表は朝に渡して、目を通すようにと彼女に念を押しておいたからだ。
「ああーー!可愛いーー!どれにしようかな〜?」
彼女は嬉しそうにテディベアを抱き上げては感触を確かめて選んでいる。
「待ちなさい。君に一つ質問がある。熊のぬいぐるみを”旅行二日目の今”わざわざ”ここで”買わなければならないものなのか?」
「はい!日本にない限定品があるんですよ!このお花を持ったテディベア、志保のお土産にどうかなって思って・・・。零一さんどう思います?」
彼女は一本のガーベラを持ったクマを零一の前に差し出した。
「は・・・?」
遊んでいる時間はないと言い掛けて、彼は目の前ののんびりとしたクマの顔を見つめて言葉に詰まった。
『そうだ・・・。この子は俺のペースを乱すのが得意だった。』
振り回された担任時代を思い出した零一は、この先の苦労をうっすら予感した。
零一の額には汗が滲んでいた。


シュツュットガルトで予約しておいたホテルの部屋に入ると、嫌でもアイボリーのダブルベッドが視界に映った。もちろんベッドは新婚旅行だから一つだけ。その上で零一は眉間に深い皺を刻み、片方の柳眉(りゅうび)を吊り上げて苦悶の表情になっていた。
「はああ〜。やはりこうなったか・・・。」
緊張と興奮で冷えた頬にうっすらと赤みが差した零一は洗い立てのシーツの上でぐっすりと眠る新妻を見て、大きなため息を吐いた。彼女は健やかな寝息を規則正しく立てて、眠っていた。起きる気配は全くない。
思い出すだけで顔から火が出るような恥ずかしい経験をして来たのは全てこの日の為なのだ。間違いがないように、初めての彼女を優しくリードできるように、余裕ある大人として行為の最中も振舞えるように、何より自分も初めてだとばれないように。
「キスをして、彼女を感じさせなければ・・・。」
まるで旅行の予定表を立てるように、夜の営みの行為の順序まで零一には決まっていた。
頭の中でシュミレーションしている時に、妻がバスルームから姿を現した。
「気持ちよかったです。零一さんも早くどうぞ。」
バスローブに包まれた若さ溢れんばかりの身体は真珠のような輝きを放ちほんのりと色づいて、まるで零一を誘っているようだった。髪を乾かしてはいるが、少し濡れているように見えますます艶めいて美しい。心臓の鼓動が一度大きく跳ねるのを感じながら、彼は何事もなかったように努めて冷静に返事をした。
「ああ・・・。じゃあ、俺も入ってこよう。
君は風邪をひいてはいけないから、先にベッドに入っていてくれ。」
昨晩のように先に寝ておけとは言わなかった。彼女のことだから自分に気遣って起きてくれるだろうと思ってわざとそういう言い方をしたのだ。
「はーい。」
元気な声を背中越しに受けながら、零一はバスルームのドアを閉じると大きく息を吐いた。
『彼女が魅惑的すぎて、目のやり場に困る・・・。』
高い身長が、頭を抱えてうずくまった。まだ新婚旅行2日目、初夜の始まりすら見えていないのに、すでに息絶え絶えのような気分になるのはどうしてだろうと、彼は苦悩していた。決戦場は目の前なのに。

零一はいつもより念入りに身体を洗い髪の毛をドライヤーで乾かした後、静かにバスルームの扉を開けた。ベッドには自分が言った通り、素直に妻が横になっていた。薄手の掛け布団が一人分の身体の凹凸の線を表している。
日本人には大きくても零一にはぴったりな白のバスローブを羽織り、零一はゆっくりとベッドへと近づいた。妻は顔を反対側を向けているので表情はわからないが、緊張しているなら和らげてあげなければいけない。そう思って彼女の肩に手を置いた。
「すまない、待たせたな・・・。」
しかし返事はない。
「おい・・・?」
首を傾げながら、彼は上から反対側を覗き込んだ。
「なっ・・・!?」
バスローブを着たまま、彼女はベッドの中で健やかな寝息を立てていた。零一が身体を小さく揺すっても瞼が開くことはなく、甘える声で自分の名を呼ぶこともなかった。
「疲れてしまったか・・・。やはり今日の計画は大幅に狂ったからな・・・。」
テディベア専門店で散々悩んで限定品のテディベアを自分と友達用に2個買うと、彼女は年中クリスマスグッズが売っているゲーテウォルファルトにも目を輝かせて店内へ入って行った。観光客に人気な場所を避けたのにも関わらず、妻にそれらが見つかったのは失敗だった。道を変えれば良かったと後悔しながら、零一は夏だからクリスマスのオーナメントなど必要ないと時計とにらめっこをしながら説得し続けたが、半年後のクリスマスに飾るからと結局ここでも彼女に押し切られてしまった。
おかげで計画は大幅に狂い、時間のロスはかなりあった。取り戻すのは不可能だと思ったが、なるべく歴史的建造物を彼女に見せてあげようと、零一は聖ヤコブ教会、マルクト広場からのびるヘレンガッセ通りの家並を歩いた。そして当たり前だがシュツュットガルト近郊のポルシェ博物館へは行く時間がなくなってしまった。ドイツでは就業時間が5時までなのである。今から向かっても閉館時間ギリギリで間に合わない。新婚旅行の楽しみの一つが潰れてがっくりと肩を落としている零一の気持ちを知ってか知らずか、妻は夏時間でまだ開いてる土産物店を回ろうと言い出した。22歳の好奇心は彼の意図する方向とは別を向いていることを零一は悟る。腕を組んでどう説得しようかと考えたがすぐに承諾してしまった。本当は歴史的建造物など自分にとってどうでも良かったのだと気付いたからだ。
自分の几帳面な性格もあるが旅行の綿密な計画を立てたのは、妻の笑顔を隣で見ていたいと願っていたからだと、新婚旅行に来てから零一はやっと思い出した。眉間の皺は取れ、彼の口元が綻んだ。
「わかった。付き合おう。君はどこへ行きたい?」
止むを得ないという言い方だが、答えている彼の顔は嬉しそうだった。
シュツュットガルトで二人が遅い夕食を済ませてホテルの部屋に戻った時は夜の9時をとうに過ぎていた。



ヨーロッパの街は石畳が多いので妻は歩きやすいスニーカーを履いていたが、慣れない石畳は歩きにくく最後には足が疲れたとソファに座り口を尖らせていた。
ローテンブルクはそこまで大きな街ではないのに、やはり土産物屋を沢山見て回ったからだと、零一は呆れ額に手をあてて大きくため息を吐いて寝顔を見つめる。
「これは計画を見直す必要がありそうか・・・。」
彼はベッドから降り、バスローブ姿のままソファに座って計画表を広げた。ロードマップやバスの時刻表も鞄から取り出した。
「明日のベンツ博物館への見学は中止して・・・。ここは徒歩だけよりもバスを使った方が良さそうだ・・・。」
石畳は思ったより足に負担がくる。零一もふくらはぎにだるさを感じている。彼女にあまり疲れさせないようにと、計画表に赤字で訂正をしていった。計画を練り直し、手帳に少しだけ今日の出来事を連ねた日記のようなものを書いた後零一もベッドに潜り込んだ。妻は隣で静かな寝息を立て、気持ち良さそうな顔で眠っていた。 気合を入れて出てきたのに、零一は出鼻を挫(くじ)かれた格好だ。
「・・・全く君は呑気なものだ・・・。」
時計を見ると11時をとうに過ぎている。妻の額に零一はキスを落として、火照った身体をひんやりとしたシーツの海に横たえて自分も目を閉じた。
床につくのが日本で過ごす時より早い時間だったが、零一も気を張って疲れたせいですぐに深い眠りがやってきた。







CONTINUE
注:次の話は初夜の話になりますので、嫌いな方は回れ右をしてくださいね



<あとがき>
一番大変なお話でした。何が大変かって?それは海外旅行にも行ったことのない人間が書く海外旅行の話ですよ!!www
もうどんだけ大手旅行会社からドイツ旅行のパンフもらって帰ってきたことか・・・(>△<)
しかも全部ツアーやから個人旅行の場合どうしよう?となり、ネットで調べたらレンタカーを借りてって方がいらして、ローゼンブルクへの道はかなり助かりました!譲治さんがナレーションの「ヨーロッパ水風景」の時にドイツを特集してくれたので参考にし、これは時差やフライト時間、お城への行き方も詳しく教えてくれてかなり助かりました!後各都市の位置がわからず、パンフ一つ一つでツアーを確認して、旅行会社の店員じゃないのに、時間と距離を計算するという面倒なことにもなりました(笑)
では、氷室先生の初夜編?ラストをお楽しみください。
<2013/12/23>





inserted by FC2 system